金衍朱(キムヨンス)著 「世界の果て、彼女」 



金衍朱(キムヨンス)著 「世界の果て、彼女」 _b0116765_21594053.jpg

「・・・当てにならない記憶力のせいで、途中いくつかの歯車が抜け落ちたように見えたとしても、結局のところ、人生は噛み合う歯車で動く装置のようなものなのだから。
あらゆることには痕跡が残ると決まっていて、そのせいで僕らは少し時間が経ってからやっと、何が最初の歯車だったのかわかる。・・・」


冒頭のこの歯車という言葉がなによりも記憶についてまわった。
実際、人間の一生を考えてみても生まれた時から歯車がゆっくりとまわり今に至り
逆にひとつの出来事をたどって振り返ってみると、その歯車がよりはっきりと見える。

この物語は図書館に働く真面目な女性ボランティアが歯車を廻すところから始まり、
主人公の僕がその歯車をたどっていく。
たどりついたところが世界の果てなのか・・・余韻を残して終わる・・・歯車を止めることなく物語が終わるのだ。
作者はこの本に収録されている他の短編作品も、こうして物語を読み終わった読者に歯車を廻し続けることを望んでいるに違いない。結論は読者にまかせるという感じてで終わるものが多い。

著者のあとがきによると「世界の果て、彼女」は日本のユニット「World’s End Girlfriend」からとったタイトルだという。
「世界の果て」といいながらなぜかそこで歯車が止まらない、良い響きの言葉だ。
本当のところさらっと読めるのだが、実は難解であった。
二度読んでも私の感じたことが、作者の意図したところかどうかは定かではない。
それでも歯車が回り続ける心地良さがあった。

翻訳者呉永雅(オ ヨンア)氏のあとがきに著者は
「韓国、日本、中国がお互いに理解する上でも、歴史を通じてではなく、各個人の肉体や感情、気持ちを通じて初めて三国の人たちは互いに理解しあえる」
と語っていることが記されている。
私が、日韓問題を考える時の気持ちはまさしくこれなのだと確信した。

著者金衍朱氏は人と人が理解しあうことに懐疑的な想いをいだいている一方で
人間同士の疎通を、自信の小説を通して試みている。
その試みこそ、国境を越えて、読むものを引きずり込む力なのではないだろうか。

「世界の果て、彼女」 金衍朱著
新しい韓国の文学10
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by shinn-lily | 2014-09-17 22:01 | 韓国を考える | Trackback

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