ほほ笑みソウル それでも仲良くしたい

日経新聞の最終面に「私の履歴書」という人気シリーズがある。
どの人もたいてい成功への足がかりを得るまでの内容が興味深い。
おりしも同僚が「私の履歴書」的な「李明博士自伝」新潮文庫を貸してくれた。
この本もやはり、李明博大統領が現代建設に入社し、タイの大工事にかかわるあたりまでが面白い。
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李明博大統領は日本で生まれた。第二次大戦後、4歳の時家族で韓国浦項(ポハン)(韓国最大の鉄工所ポスコがあるかつての漁村)へ引き上げる。船で韓国に引き上げる際、定員オーバーの引き上げ船が対馬沖で沈没し、全員助かったがわずかな財産、持ち物は全て失い、身ひとつで韓国に上陸した。食べるものにも住むところにも困る毎日、母親について仕事を手伝った。どんなに貧しくても、人の手伝いをしても、人様からものをもらうことは、母親からきつく禁じられていた。厳格に育った。
二人の兄が優秀であったことから、彼への教育について両親は無関心であった。
定時制の高校はトップであれば授業料が免除となる。免除がなくなれば退学することを条件に最後まで通い通した。睡眠は4時間、リヤカーで果物を売って家族を助けた。定時制の高校から高麗大学(日本の早慶に匹敵)に合格したのも異例であるが、入学金も授業料も払うメドがない。助けてくれる人が。彼に仕事の世話をしてくれた。その仕事梨泰院(イテウオン)(米軍基地が近いことからインターナショナルな観光の町)のゴミ掃除をやりつづけ、大学を卒業した。在学中に 6・3デモ(韓日会談反対デモ)を主導し、内乱扇動罪に問われ、投獄される。現代建設に入社、28歳で理事(取締役)、35歳で社長、46歳で会長に就任 し、現代建設を韓国のトップ企業に押し上げた。’92年退社後、国会議員として政界入りする。2002年ソウル特別市市長に当選。’07年大統領選挙に当 選し、’08年2月、第17代大韓民国大統領に就任 。


竹島に上陸後、梨明博大統領の低迷していた支持率は17%から上昇することになった。
上陸時の顔が何故かおどおどしてみえる。
経済界出身の大統領に、厳しい経済環境を打破してくれるのではないかと、期待が高かった。
しかし、経済は低迷しつづけ、良いとみえるのは一部の民間企業、例えばサムスン電機、現代グループなどが頑張っているだけなのだ。
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                       (李明博大統領がソウル市長時代、大掛かりに整備した東大門あたり)

李明博大統領にとって日本は敵なのか?
確かに現代建設時代には、各国での入札は日本が必ず競争相手となってきた。
商売上、日本を常に意識している様子はうかがえた。
あるいは、4歳までの彼の記憶に日本があるのだろうか?
慰安婦問題は当事者にとって解決の日はないだろうが、これまで、お詫びのために
積み上げてきた実績がある。それをゼロに戻すというのであろうか。
秀吉時代から韓国には肩身の狭い日本人ではあるが…。

自伝によれば、李明博という人間は自分個人の利のために動くことはない。
人の頼みごとにも融通がきかないほど頑固であったと記してあった。

母と10年前にソウルに行った時、
この年代の人たちには韓国に対して多少の偏見があるが
「韓国の若い人たちは本当に優しい」と韓国に対するイメージが変った。
また仕事上おつきあいしている韓国の女性の素敵なこと
会えば、仕事抜きにおしゃべりがはずむ。
そして、これまで韓国にまるっきり興味のなかった妹も、
次はいつ行こうかと考えていそうだ。

人と人のおつきあい、顔を合わせればつながる
そんなつながりを大事にしたいと思っている。
近くて遠い国が近くて親しい国となることはあるのだろうか?

化粧品と屋台とファッションと食べ物屋などごちゃ混ぜに並ぶ明洞の街は
この日も相変わらず何事もなく賑わっていた。
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by shinn-lily | 2012-08-28 22:50 | ソウル | Trackback

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