古いアルバムより
2011年 08月 22日
我が家で一番古いアルバム、父の大学卒業記念品と記してある。
1ページ目は結婚式の写真が貼られている。
家族の始まりである
アルバムの中に、わが家族の始まる前の写真が混ざっている。
母がバラバラの写真を貼ったのであろう。
父は日本橋の商家の十二人兄弟の末っ子で、
両親が亡くなった後、大学には跡取りの一番上の兄がやってくれた。
私が大好きな三枚の写真がある。
たぶん父が高校生か大学生の頃、別荘として使っていた辻堂の家で
兄の子供たちの付添をしている
海岸から家に帰る途中、けだるい満足感がただよっている
そして一番好きな写真
夕暮れ、縁側でみんな額をよせ、よく見れば、スイカにかぶりついている。
外に見える屋根が当時ののどかさを感じさせる
自分にも子供がいて、それなのに父とその上の兄を大学で勉強させてくれた一番上の伯父
小さい時は遊びに行くと、車の窓から、お菓子やら、ジュースやらを持たせてくれた。
自分はいつも身を粉にして働いていた。
大変なカメラ好きだったと聞いている、それゆえこうした写真が残っているのだろう。
伯父は本当は自分が工学部で学びたかったに違いない。
父は入院中、亡くなる前に時々、記憶があいまいになって、
私にこう言ったことがあった。
「本家の兄貴に干物を送っておいてくれ」と。
前日私が焼いて持っていった干物がよほど美味しかったのだろう。
もう20年も前に亡くなっている伯父に、
私だって送れるものなら、干物を山ほど送りたいと思った。
古いアルバムはいろいろな思いを呼び覚ましてくれる。 つづく
何とも温かいご家族やご親戚の写真ですね。
ものの少ない時代でしたが子供たちの心は今よりずっとずっと、豊かだったように思います。
縁側で冷えたスイカをかぶりつく・・・
口に含んだスイカをどこまで飛ばせるか、
姉と兄と競っていつも負けてべそをかいていたことを
思い出しました。
今は物が溢れていますが、どこかが違っています。
昔は無ければ無いなりに。楽しむ工夫をしていたと思います。
スイカだって食べるだけではない。種飛ばしなど楽しんだものです。
今の子は物や情報が多すぎて受け身になってしまって楽しみを作ることを知らないように思います。
我が子もそうかな。ちょっと観察してみましょう。
モノクロの写真の中に、いろんな色が見えます。心の豊かさがあふれた笑顔。昔は子供ってみんなこうでしたよね。私の子供の頃3歳くらいまでは白黒が混ざってますが、その後は全てカラー写真になり、現代ではデジカメで撮っても気に入らなければその場で消して次の良いショットを撮り直せる。技術の進歩もいいのだけれど、こういう昔のよき時代の写真を見ると、その頃の方が断然人は必死に生きて、幸せだったように思えます。
私もこんな時系列の大切なアルバムが欲しいなぁ。
お父様はお父様を早く亡くされても父親代わりのお兄様がいらして、その時代に大学を出してもらえたなんて幸せでしたね。
涙がでそうです。
辻堂・・・すごく印象深くて♪ふふ
我が家は別荘は無い暮らしでしたが鎌倉に叔母がいて
夏休み家族でおしかけなん日も滞在して海へいくのが楽しみでした。
貧富の差がはっきりあった時代に暮らしも豊かに心も豊かに
過ごしてらした様子が伝わってきます。
3枚のモノクロ写真から我が家のアルバムも開きたくなりました。
もちろんモノクロです♪
いろんな事を雄弁に語っています。
お父さまとお母さまの結婚写真・・私の両親と多分同じくらいの年齢です。
母から聞いたのですが
当時打ち掛けを着ていた人は少なかったと思いますよ。
豪華な打ち掛けのステキなお二人です。美男美女ですね。
そして、、、、、、、、
共通点をいつもあれこれ見つけてしまうのですが
伯父の立場 立ち位置がうちもやはり一緒でした。
伯父が父親代わりに兄弟全員の経済的な負担も担っていました。
私の父が最後まで伯父夫婦を敬い!
私を差し出した(?)気持ちも解ります~笑
そして写真・カメラ
伯父もやはり大変なカメラ好きで、、、
細長い長方形の箱を上から覗き込んで、、、の分ではありませんでしたか?
ときどきはスライドのカラーで
(私の3歳の晴れ着姿はカラーで 太陽に透かして見ていました)
lilyさんの想い出なのに、、私の想い出のように浸ってしまいました~ニコニコ
打ち掛けの話は説明不足でした。
刺繍のしてある黒い地の豪華な着物での文金高島田ではあっても
こんな白っぽい本格的な着物の上に打ち掛けまでの結婚式は・・
めずらしかった~!という事です~♪
お婿さんのお土産の繊細さに、、ため息でした~。。
食べずにとって置きたいですね♪
海の中で、海から帰る途中、そして縁側で..という具合にカメラの方を向いてと言う声と共にはにかみながら撮られた被写体の方達のお顔を見ていたら、なんて昔の方達ってまっすぐないいお顔をしているんだろって思いました。
伯父様の愛情をしっかり受け止めて色んな事に頑張っていらしたお父様も愛情深く凄く素敵な方ですね。
あの頃の日本は物は今ほど豊かじゃなかったかもしれませんが、心は溢れる豊かさをみんな持っていたんですね。
取り返しがつかないかもしれない大きな忘れ物をあの時代に置いてきてしまったんだって思うのは私だけじゃないですよね。
私も、幼い頃にはよく田舎の(私が住んでいたのは、田舎の中では町でしたので)親類の家に遊びにいって、従兄弟たちと遊んでいましたね。
山や川や海で、真っ黒になって遊んでおりました。
少し年上の、親類のお兄ちゃんが目付役でした。
今はあまり親族の絆もなくなってきたかもしれません。
冠婚葬祭くらいにしか、顔を合わさない親類が多くなったように思います。
まさに、古き良き時代。だよね~~
昔はさ、そういう事よくあったみたいですよね
長兄が下の子を助けるって
まあ、それも家族が多いから年齢差ができてできるってこともあるだろうけど、それよりもさ、愛だろうね
自然に できる人がやればいい、みたいな
恩着せがましさのない、
lilyさんのお父様の家族関係をすこし聞かせてもらって、懐深きlilyさんの土壌が見せた気がしました
次を楽しみにしています
12人兄弟の甥やら姪やらが寄り添って夏をすごすって、なんだかうらやましい光景で
このアルバムを開くたびに、見入ります。
この時代の後、戦争に突入する、大きく時代が変わっていったことでしょう。
束の間の平和な時だったかもしれません。
今年はとうとう大きなすいかをまるごと買うことができませんでした。
こだますいかが多くなりましたね。種も黒々した大きなものが少なくなりました。
そうですね、子供の時はこの写真の子供は誰だろうくらいにしか見ませんでしたが
だんだん年齢を経て、人間のつながりを深く感じてくると
この写真はなかなか貴重なものだと思えてきました。
子供もおとなも情報の渦の中でぐるぐる、めまいをおこしそうな中でやっと立っている。
自分の立ち位置をしっかり見ることができるように、
目を大きく見開きましょう。
時代の差を感じますね。
わたしがカラー写真に接したのは、高校生の頃だったような記憶があります。
デジカメが出る前は写真を撮るのも1枚1枚が大切でしたね。
10年前はまだデジカメはこれほど出ていませんでしたから
この変化におどろきます。
こうして3枚の写真がどんなに貴重だったか
わたしにとっては良い写真を残してくれた、こういうものこそ、心の相続だと思います。
昔は昔なりに大変、今も大変、どの時代も生きていくのは大変なのですよね。
でもそんな中で感動こそが生きている証、人間の証
だから、感動をたくさん貯蓄していきましょう。
もしかしたら、予期せぬ利息もつくかもしれませんし(笑)
こすもすさんの辻堂の海岸散歩の記事を見て、この写真の存在をおもいだしました。
辻堂は戦前はこんな様子、海に人が少ない
砂浜の向こうに建物がない
今の湘南では間考えられませんね。
わたしは辻堂という地名は昔から聞いていたのですが、場所がわからず今回調べてみました。今なら首都圏ですが、昔は日本橋からはそれなりのよい、距離だったのでしょう。
日本橋の家は店と一緒でしたから、みんなこちらに追いやられていたのでしょう。
心豊かに暮らすということはどういうことなのか、今改めて考えますね。
テンポがゆっくりとしていて、ものをきちんと考えながら暮らす、そしてみんなが慈しみ合って生活ができる、
今だって豊かな心は持てるとはず、そんな上質なときをつくりましょうね。
こすもすさんのお宅のアルバムも見せてくださ~い♪
Kimanbaさんの目の鋭さに今夜も感嘆!
そうなんですって。この打ち掛けは祖父(あの東電勤務の)が知り合いの美容院で準備してもらったもの、芸者さんだけではなく美容院にも知り合いがいて顔が広かったらしく
糸の通った新しいものをおろしてくれたそうです。当時は貴重なものだったらしいという話をしたことがあります。祖父が一生懸命駆けずり回ってくれたこと、そのことがいまだに母の胸の中にあるようです。父は美男ではありませんが、精悍な表情をしていたなと思います。
結婚式は縁談を取りまとめてくれたお寺で挙式、写真はお寺の前の女性カメラマンが撮ってくれたそうです。
この日から母の苦労がはじまりました(笑)
努める会社がどんどん倒産して・・・・自分で企業するまで、そしてそのあとはさらにのお金の苦労・・・今になって両親の苦労がよく理解できるようになりました。
でも父は昔話をしない人でしたから、母から聞き出します。
跡取り家長というのは、自分のことはさておき、兄弟のめんどうをみた、決して経済的には豊かな時代ではないのに、たいしたものだと思います。
同じ境遇だったのですね。子供が3人いましたから、私は差し出されませんでしたが、
父の伯父に対する態度は父親以上にきちんとして敬語で話をしていました。後年はなにかにつけては都心に行くたびに本家により、いろいろ届けたり、たぶん感謝してもしきれないと思っていたことが、今になってよりいっそう鮮明にわかります。
伯父のカメラ好きは実際には見ていないのですが、亡くなったあと、ライカなどのカメラをみんなが欲しがって、その行方についてずいぶんみんなの話題になりました。
スライドや8ミリは父が映してくれましたが、カラーではありませんよ、やっぱり白黒でした。その頃からカラーって凄いですね。
kanafrさんに言われて、もう一度写真を見てみました。
たしかにまっすぐですね、まっすぐ生きていた、ゲームもパソコンもなかった時代ですから海水浴は楽しかったでしょうね。
父は本当に伯父に感謝していました。伯父も息子以上に可愛がってくれたようで、
母にいつも「車の事故には気を付けるように」と言っていたそうです。
母は本家に行くとどんなささやかでも、お土産をもたせて、空手で返すことがない伯父伯母の姿勢を学んだと言っていました。
丁寧な心で生きていたのでしょう。それが豊かさなのかもしれません。
取り返しがつかない忘れ物かもしれませんが、きっと今も豊かなもの、大切なものがあると思います。
Kanafrさんのブログでもそんな場面をしばしば見せていただいています。
最近では子供が少なくなってきて親類や従弟って少なくなりましたね。親戚っていうだけで、友達とは違う安心感があって、転げるようにして一緒に遊ぶことが出来るって、子供の頃の良い思い出なのですよね。
山や川の遊びの中で人間関係も自然の偉大さも怖さも知る、これが人間本来の成長の道なのかもしれないと思います。
uransuzuさんはみなさんがそばにすんでいらして、きっとそういう環境がこれから、たくさんできてきますね。将来が楽しみですね。
わたし、弟がちょっと具合悪くて入院したとき、なにかあったら、弟の子供たちを大学までめんどうをみなくてはって咄嗟に思いました。
ああ、これからは節約しなくてはとね。
やはり伯父が父を育ててくれたから、その気持ちは伝わっているわけです。
それにしても、ふだんは自分のことでいっぱい、いっぱい、
昔の人はたいしたものだし、肝が据わっていたし、信念がありましたね。
愛って意識していなかったと思うけど、それこそが愛なのですね。
今頃、天国でまた伯父のそばにいるかもしれません。(笑)
父は日本橋の生まれですから、
今igu-kenさんがご紹介くださっている台東区や墨田区にも
ずいぶん連れていってもらいました。
その頃の懐かしさをお写真の中にみつけることができます。
湘南がこれほどの静けさにつつまれて
そこに戦争前の平和があって、
父の思い出だけではなく
そのな日本の思い出も・・・写真って有難いですね。
わたしの知らない父を見ることができます。
父は若い頃は仕事ばかりの人で、とても厳しく、子供たちはいつもびくびくしていました。
だから怖い怖い父でしたが、こうして亡くなって10年たつと、懐かしさから
良いところばっかりが思い出されます。
ですから父と語り合うというより、父は何を考え何を目指していたのかとよく考えます。
今にプールのある家を買うからと言っていましたが、幻想でした(笑)
ただ根はやさしくて、子供のことをよく考えてくれていました。
やはり跡をとる人が大黒柱にならないと、いろいろなところにきしみが生じますね。
親戚はやっかいな存在になることもありますが、やっぱり懐かしいさがある、そんなことを大切にしていきたいと思います。
あ~りがとうとつぶやいた~♪
あたたかな時がいっぱいこもった写真ですね、
最後の一枚はまるで絵のような、それでいて写真でなければ表せないものもあり、そこに通う気持ちまで感じられる一枚だと思います。
お父さまの思い出もきかせてくださりありがとう。
「本家の兄貴に干物を送っておいてくれ」と言われたお父さま、
そして干物を焼いてお父さまのところへ持っていっていたリリーさん、ほろっとしてしまいました。
私ね昔から何かあったとき逃げなくちゃならないときは、
まずアルバムってずっと思ってきました。
昨日は仕事を休んで寅さんと小田原の伯母のお見舞いに行ってきました。
小田急線からリリーさ~って呼んだの聴こえましたか?(笑)
自宅療養中の伯母がやはり古いアルバムを見せてくれて、
実はね、行くといつも見せてくれるんです。
でも私たちもいつも初めて見せてもらったように見てきます。
そこにある伯母の思い出の数々、それがどれほど愛おしいものであるかわかるから。
私も昨夜帰ってから古いアルバムを開いてみました。
こちらの写真も同じですが、昔はフラッシュなど使いませんから、殆ど逆行で顔が写っていませんね。しかし、それが身体の輪郭を強調させていて何とも言えない思い出がよみがえってきます。
そんなぁー!呼んだだけで通り過ぎましたか?
ロマンスカーでしたか?
sarakoさんおひとりの時、ぜひ小田原からふつう急行にのって、新百合ヶ丘で降りてください。
仕事を抜け出して、かけつけますよ。ぜひぜひ、お会いしたいわ~♪
父が病院にいる時は毎日、あちらのパン、こちらのパンを買っていきました。今だったら自分で焼いたパンをもっていけたのに、あの時はそれがせいいっぱい、その前はお餅を焼いて持っていったのですが、ある時喉につまらせて、それでおしまいになってしまいました。
病院の食事って薄味だったから、干物がおいしく感じられたのでしょう、母は伯父の恩をいまだに感じ、その次の跡取りにいまだに盆暮れをかかしません。
そういう関係はわたしも、大切にひきつぎたいと思います。
昔の人はたいしたものです、自分を犠牲にして兄弟のめんどうをみたのです・・・なかなか出来ないことです。
sarakoさんの写真もみたいわ、北海道かしら?
期せずして、セピア色の思い出をupしたのが不思議でした。
これは戦前の写真、そう70年近く昔のことです。
antuanの写真はわたしの思い出とぴったりとはまりました。
あっという間に、時代がめぐり、懐かしく写真を手にとる、
そんな時期、そんな季節かもしれませんね。
カラーだったら色があせていたことを考えると、今のデジカメの写真
手軽すぎて、そして手軽に消えていくような気がします。
私も一度お見かけした気がしているのですよ。
このお写真の方でしたね。
海から水着のままで帰る、懐かしいな。
実家は海からは遠かったけど、誰かにお願いして、海からその方の家に寄って、お風呂に入って着替えて帰る、というのがありました。
こんな感じだったな。
西瓜も庭に向かって種を飛ばせば良かったの。
逆光だけど、真ん中のところから光が発せられて、トライアングルの構図が、レンブラントを思わせます。
縁側、スイカ、おかっぱに丸坊主のスタイル、、懐かしい日本の記憶なんでしょうね。私の両親の時代かなと思います。
家族の思い出と歴史。いいお写真を見せて頂きました。
父とあったのはいつごろでしたでしょうかね、お通夜には来ていただきました。
父はこの辻堂の経験があったからでしょうか、私たちは子供の頃、夏休みは一か月ほど千葉で過ごしました。
毎日泳いで、海の怖さ、楽しさを学びました。
水着で浮き輪をもって泳いで、水着のままかえってきました。
水着の中に砂がまざったりしてちくちくして、でもそんな経験も懐かしい、
きれいなホテルのプールでは味わえないことですね。
レンブラントの構図?さすが見るところが違いますね。
想いもつきませんでした。
わたしはこの写真は、スイカを食べていると、お寺の鐘がゴーンとなって、鳥たちが巣へかえる、そんな気分です。
この写真は戦前のものですから、ご両親の時代よりもう少しさかのぼるのではないかしら?
昭和の十年代の日本なのでしょう。
こんな時代がついこの間、100年も前のことではないのですから、
これから100年後はどうなっているのでしょう?
今の私たちのこの膨大な写真をどんなふうに感じるのでしょうね。
時代はどんどんめぐりますね。