ぐるぐる釜山・カムサハムニダの旅 3
2009年 05月 09日
高校を卒業した春、奈良談山神社から多武峰を越して、明日香を旅しました。
石舞台、日本最古の飛鳥寺を訪ね、川原寺跡を歩き、聖徳太子生誕の寺、橘寺に宿泊をしました。
この時の印象が強く、この飛鳥の地を作り上げた百済の建築家、瓦工、彫刻師などの技術集団の故郷を尋ねたい、これが今回の旅の目的のひとつでもありました。
朝8時、飛鳥に似ているといわれる慶州に行くためにチャーターした車の運転手兼ガイドの趙さんがホテルに迎えにきてくれました。
釜山から約1時間慶州インターを降りると、サービスエリアで一休み
殺菌の戸棚にカップが容易され、お水もお茶も自由に飲むことができます。
まだ時間が早かったので、ほとんど人がいません。普通は朝9時釜山出発だそうで、1時間も早いスタートでした。
インフォメーションで日本語の慶州パンフレットと地図をもらって、仏国寺をめざします。
車を降りて、新緑の中を登って行きます。
仏国寺の門が見えてきました。
葉紅葉のトンネルを抜けると、写真でよく見た青雲橋、白雲橋33段の階段です。
33の階段は修行僧が33の艱難辛苦を乗り越えて釈迦の世界に入ることを象徴しているそうです。
もう、20年前くらいにこの地を訪問した母によると当時は韓服を着た老人もいっぱいいたそうです。
この賑やかな提灯は5月2日が旧暦でお釈迦様の誕生日なので、それを祝うためのもの、このへんの色の使い方は日本とは違います。
33階段は国宝で登ることができません。
わき道から上がると大雄殿、仏国寺の中心にあたります。
人が少なくてゆっくり見学ができます。日本人の観光客もちらほら
ところが、この後、静かなひと時は破られます。
ここで祈れば亡くなった家族が極楽にいけるというので、
子供たちをかき分け、お願いをしました。
子供たちはどんどん増えます
おかあさんたちは木陰で一休み 隣は瓦に願いを書いて奉納
新羅の文化遺産仏国寺は1995年世界遺産に指定されています。
751年新羅の金大城が現世の親のために創建し、しかし1593年秀吉が派遣した加藤清正がこの寺と文化財を焼き討ちにしたのです。残ったのは石の部分だけで、1969年から1973年今の姿に再建されました。
入り口の掲示はこうなっっています。
文禄の役で消失したと記されているだけで、日本という文字はありません。
日本の観光客が多いことに配慮されているのでしょうか。
大勢いた子供たちに、この歴史はどう伝えられているのでしょう?
日本のルーツを求めて訪問した仏国寺でしたが、なにか肩身の狭い気持ちで後にしました。
ガイドの趙さんはこう私に言いました。
「昔はみんな戦争で殺し合いをしていた。
韓国を攻めてきたのは日本だけではない。
モンゴルも中国も攻めてきた。
それなのに日本のことばかり悪く言って、謝罪をもとめている。
戦争はみんな残酷なことをします。」
どこか心もとない日本語がいっそう寂しく感じられました。
趙さん、日本人の私に気を使ってくれてカムサハムニダ
慶州は一昨年母と行きましたよ。
史跡を巡る旅…台湾でも、韓国でも、そう感じました。
アジアの歴史の中で、日本という位置づけは
時に複雑で申し訳ないという気持ちになることもあります。。
今の私には、旅に出たら日本人として品行方正に
地元の方に迷惑をかけないようにすることしかできませんけど。。
今の自分は関係ないからといいたいところですが、実際その現場にいたら秀吉に反対意見など言うことも出来ず(あたりまえ)時代に流されている自分が見えます。
長い歴史の中で
善・悪が判断されていくのでしょうが、では今なにが出来るか、
irihinidefuneさんがおっしゃるように、
品行方正に、そして訪れる国に敬意を持って接することしかできないかもしれません。
そしてもうひとつ、過去を知っていなければならない、そして伝えていかなければならないと思います。
そういう意味でも、やはりこの目で見ることは大切だと感じました。
それにしても、秀吉の朝鮮出兵は理解できません。
胸があつくなったのは私も同様です。
今、こうしてお隣同士の国として民間レベルではお互いの尊厳をみとめあい、交流に勤めようという気持ちがそこかしこから伝わってきて、
もっと事実をきちんと伝えるべきではないかと思う一方、心使いのある対応を感じられたのは今回の旅の成果でもあります。
韓国は日本人のルーツであると思っている私にとって鍵コメさまも私も同じスタンスであると考えています。
過去にいろいろありましたが、私たちの世代はひとりひとりが国の犠牲にならないように、きちんと見守っていきましょうね。
きっとおめにかかる時が来る、そんな予感がします。
とっても人懐っこいキャラで演出されていました。
その秀吉がどうして恩ある朝鮮を攻めたのでしょう?
歴史の勉強不足です。
これから調べてみますね^^
この寺で修行した僧も、日本に来たのでしょうね。
往来ができるようになって、善き時代が来ました。
もっと友好が深まって欲しいです。
秀吉は朝鮮を攻めようとして出兵したのではなく、その先の中国への途中に朝鮮があって、戦国の時代ちょっと通り道として利用するつもりが、案外そこはきちんとした文化をもった国で、強い抵抗にあったという説もあります。
例えば、薩摩の国、伊予の国を通ってという感覚しかなかったのではないかというのです。
あるいは、かなり精神的な疲れで判断に狂いを生じていたという説もあります。
たぶんその両方がミックスしての出兵ではないかと思いますが定かではありません。
戦国時代は人を殺して、自分の国を作るのですから、
秀吉など戦国武将はは並大抵な人物ではなかったのではないでしょうか?
最近の武将ブームではやや美化されすぎているように思いますが。
この仏国寺には修理中の塔があってその中から最古の印刷物が発見されています。
そうなると法隆寺で現存の最古の印刷物より、実はこの仏国寺のほうが古いことになります。
友好を深めるために、お互いの文化を深く知り、尊敬の念をもちたいと思います。