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麻布十番 心の散歩

私の住む郊外は駅前のパーキングでも12時間1,400円
それがまあなんと1台限定で5時間で2,200円

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それでも、相場に比べたらお安いのでしょうね、ここは麻布十番ですもの。
今風のお店や老舗が並ぶ中でもこんな建物は、子供の頃の郷愁をおもいおこさせます。

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仙台坂を上ると、
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左側が韓国大使館

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その前にある韓国食材店でナムルとキムチをお買いもの

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さきほどまで、こんなに美味しいイタリアンをいただいていたのに
食に対する欲は際限ありません。

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この日、ご案内くださったのはあちらこちらにおしみなくいろいろご案内くださるwhiteさん
ご一緒してくださったのは、いつもその優しさに心打たれるコスモスさんと
お会いするたびに若さと重厚さを増すuransuzuさん。
いつも皆様ありがとう。
次回はyumiyaneさんもご一緒に。
by shinn-lily | 2015-08-30 16:13 | 大切な時 | Trackback

ZERO to ONE


今年の7月15日にamazonが「1日限り夏の大SALE」をサイト上で行った。
どんなものかと覗いてみると、数量限定のお得な商品がつぎつぎと紹介され、早いもの勝ちでその製品をクリックして購入するという仕組みだった。
次々と新しい一手を投入してくるものだと感心しているうちに、キンドル向けに購入金額ゼロ円でダウンロードできる数冊の本の案内を見つけた。家庭画報や伊坂幸太郎の小説など比較的旬の本が出ていたので目にとまったのだが、だからといってさして読みたい本があったわけではない。でもせっかく無料なので、最も自分で買いそうもない本を選んだ。

ピーター・ティール著[ゼロ トゥ ワン] 
君はゼロから何を生み出せるか


起業をしたいと考えている若者向けのメッセージでもある。

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「ピーター・テーイルはシリコンバレー人の中でもエキセントリックな人物として知られ起業家、投資家、ヘッジファンド・マネー ジャー、篤志家などとさまざまな顔を持っているようだがそのあたりには興味がない。
なんといってもこの本のテーマ
「同意してくれる人はほとんどいないけれど、重要な真実は何か?」に心がひっかかる。
そんなものを考え着くことが出来るだろうかと。

ちょっと前まで考えられなかったようなことが、コンピュータ上に起きていて、その機能についていけない私が読み切ることが出来たのは、この本の中にある新しい世界への躍動感にひっぱられたからに違いない。
失敗は成功をくりかえして夢をかなえた人間たちの動きは魅力的だ。物事の本質を見ることが出来て成功した人、本質を見誤って失敗に終わってしまったビジネスなど、わたしの想像を超えたはるかな世界で新しい文明が生まれていることを感じる躍動感である。

その一方で足元を見る言葉が印象に残る。
「コンピュータは人間の代用にはならない。人間を補完するものだ」
「技術者は売ることよりもクールなものを創ることしか考えていない」
「営業マンはみな役者だ。彼らの仕事は売り込みであって、誠実であることではない」
「売り込みだとわからないのが、一流のセールスである」

ネットで気軽にお買いもの、カードで決済、自宅まで届く、
瞬時に手許ダウンロードして本を読むことが出来る。
おそらく「誰も同意してくれる人はほとんどいなかった」中で立ち上げられ仕業であろう。
誠実ではない営業にたけた人物が作ったシステムで
結局、訳も仕組みもわからずにその便利さを享受しているだ。
by shinn-lily | 2015-08-25 21:09 | | Trackback

子供たちの叫びが聞こえる

  
 岩手県の中学2年生が電車に飛び込み自殺をしたのが、7月5日である。連絡ノートが公開され、
「もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね」という言葉が人々に衝撃を与えた。
そのノートには「いじめ」から救って欲しいとSOSが叫ばれていた。
その訴えに方向違いの回答をしていた担任教師に批難が集中した。

 何か事件が起きた時、報道が騒ぎ、有識者と言われる人がたくさんのコメントをする。
私たちにとって、報道がほとんどされなくなったこの事件はあたかも終了したように見える。
しかし亡くなった少年の無念さ、家族の悲しみ、関係者の苦しみはまだまだ真っただ中であろう。
そしてなによりも心が痛むのは、少年を苦しめたのと同様ないじめが各地でたくさんあるということだ。

 知り合いのお嬢さんの中学生がいじめにあって、家から外に出られなくなってしまった。
母親は、弁護士を頼み教育委員会を動かし娘を他の地区の公立中学校に転校させた。
可愛らしい瞳がおどおどしている様子を見ていたので心が痛んでいたが、ひとまずほっとした。
この母親は日本人ではない。慣れない交渉をよく頑張ってやりとげた。
二学期、どうか元気に学校に通えますように!

 しかし一方では、義務教育といえども学校が全てではないとも思っている。
娘が小学生から高校の頃、もし学校に行きたくないといったら、時間が許す限り徹底的に子供につきあおうと覚悟していた。博物館、美術館、旅行、おけいこ事など、生活が楽だったわけではないが、ここは借金をしてでもやらなければならないと考えていた。現実には小学校は熱を出してよく休んだが、中高は皆勤で親まで表彰され、心配は危惧に終わった。当時もいろいろな理由で学校に来られない子供は多かった。でも道は一つではないと考えていた。

 お盆も過ぎて、8月が半ば過ぎになると新学期も間近だ。
二学期が始まるのを恐れている子供たちがたくさんいることを忘れないで欲しい。
いじめられていた子供たちにとってはとても辛い時期だと聞いている。
そんな子供たちに対して、なんの力になってあげることが出来ないのに、なんだか気持ちがざわざわして落ち着かないのだ。
思春期真ん中で悩み苦しみ、そして未来に足を踏み出そうともがいている中学生たちが愛おしくてしかたがない。

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ねえ、君たち!これから、つらいことと同じだけ楽しいこともいっぱいあるからね。
by shinn-lily | 2015-08-18 22:30 | 大切な時 | Trackback

戦争の記録 祖父母から孫への手紙

娘が小学校2年生の時、クラス担任の熱心な指導の下、おじいちゃん、おばあちゃんへ出したお手紙の返事が一冊の冊子にまとめられました。

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当時学校で「平和教育」に取り組んでいましたので、娘は戦争についての質問の手紙を書きました。
ふと思い出してその冊子を読んで、戦後70年の終戦記念日を前にこの文章を他の方にも読んでいただきたいという想いにかられました。


娘の祖父である私の父は日本橋に住んでいましたが、当時海軍士官として横須賀に赴任していたようです。

祖父の手紙
①戦争はいつ始まったのですか
昭和16年(1941年)12月8日 朝、日本海軍のパールハーバーの空襲で始まりました。

②戦争はいつ終わったのですか
昭和20年(1945年)8月15日正午に終わりました。

③その頃はどんなおうちに住んでいたのですか
古いおうちばかりでした。昔の日本の感じです。戦争で焼けなかった京都の町によく似ています。あのまち、こもまち、みんなおもいでのまち、よこちょうです。古いしゃしんを見てください。

④その時どんなふうにくらしていましたか
みんな焼け野原です。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんたちみんなこじきのようなくらしです。食べるものは少なくておなかがすいてこまりました。でもまだ良い方で、戦争でかぞくやお父さん、お母さんの亡くなったこどもたちはやけあとの今のJRのえきなぞにくらしていました。

⑤こどもはどうしていましたか
東京の子どもはめいれいでそかいといって田舎におくられました。
こどもたちと先生だけですから、ゆきとどきません。たべものもあまりありません。しらみのいっぱいいたせいかつです。
1989年1月1日




娘の祖母である私の母は当時中野に住み、父親がこの状況下娘を心配して傍においておきたいということで、近所の小学校の教員をしていました。

祖母の手紙

戦争中の子供たち

 私の小学校4年生の頃支那事変という今の中国と戦争が始まりました。友達のお父さん、お兄さんがぼつぼつ戦争へ行きました。
お父さんが戦争に行ってしまうとの残されたお母さん、子供達はとても淋しい思いをしたのです。只淋しい思いをするだけではなく、何時戦争でお父さんが弾丸(たま)に当たって戦死するか、又けがをするかわかりません。

 昭和16年、大東亜戦争に突入するともう殆どの家の男の人は戦争にかり出されました。いつその召集令状が来るか、足音が家の前で止まると胸がどきどきしたものです。召集令状は当時「赤紙」といわれて赤い紙に「何月何日軍隊に出頭する事」という事だけ書いてあり、その「赤紙」がきたら、どんな事情があっても軍隊にいかなければならないのです。おじいさん、子供たちは別として、病気でない男の人は殆ど召集令状を受けて、戦場へ、戦場へと行ったのです。
 だんだん戦争がはげしくなり日本本土上空にもアメリカのB29が爆弾や焼夷弾(しょういだん)をたくさん積んで百機、二百機と編隊を組んで襲来、爆弾を落とし、焼夷弾をおとしました。 私はその頃、小学校の先生をしていました。勉強をしていても何時敵機来襲があるかわからず、落ち着いて勉強もだんだん出来なくなりました。子供たちが東京にいては危ないのでなるべくあまり敵機が来ない田舎へ疎開するようになり家中で田舎に引っ越す人もいました。又お父さん、お母さんが仕事で田舎へ行けない人は子供だけ親戚の田舎の家へ疎開する子がふえてきて、教室の子供たちもだんだん少なくなりました。でもまだ田舎へ行けない子供たちは毎日防空頭巾を肩に下げて登校しました。
 敵機の来襲のサイレンが鳴るとすぐに勉強をやめて自分たちで校庭に掘った防空ごうの中へ逃げました。防空ごうへ入るか入らないうちにB29のすごい爆音が聞こえ、すぐに爆弾を落としたドスーンという音がします。その時防空ごうの中の土がそのひびきでパラパラと落ちるのです。皆、耳をおおって、体をちぢめ、怖さに震えているところへさらに土がくずれ落ちます。絶え間なくドカーン、ドカーンという音と地響きして、それはそれは怖かったものです。すぐ近くで爆弾が家に命中して燃え上がり、私のクラスにも一家全滅した家もありました。

 いよいよ空襲が毎日毎晩のようになり疎開しないで残った子供たちも危険になり、学校で先生が子供たちだけを連れて集団疎開をすることになりました。私も最後の組で二十数人の子供たちを連れて集団疎開をしました。昔の古い宿屋さんにお世話になり、お父さんお母さん兄弟など家の人達と離ればなれの三年生以上六年生の子供達と一緒に生活をしました。
 午前中は宿の二階で勉強、午後は上級生はリュックを背負って先生と一緒に買い出しに、下級生は畑の芋とりにと淋しさ、悲しさに耐えて食糧集めに一生懸命でした。初めのうちは芋や大根の入ったご飯が食べられましたが、せまい田舎に急に大勢の疎開者が増えたので食糧がすぐにたらなくなり、ご飯がおかゆになり、それもだんだんにコメ粒がほんの少ししか入っていない水っぽいおかゆが殆どでした。もちろんおかずらしいものもなく、お腹がいつもすいていてだんだんに元気がなくなりました。おまけにのみ、しらみ、蚊、はえが多く昼間座敷を歩いても、蚤がぴょんぴょんと足のすねに5,6匹、また洋服、下着、ふとんにはしらみがびっしりついて、おおきなお釜で下着を蒸してしらみを殺すのですが、いくら蒸しても卵は死なず、しらみ退治は出来ません。畳を全部あげて日に干してたたくのですが、その晩はかえって畳の中の方にいたのみが出てきておうあばれ、女の子には髪の毛にもしらみがついて、くしでとかしてあげるとポロポロと黒い毛じらみが沢山落ち、お酢で洗っても洗っても、はやり玉子が生き残り、退治できませんでした。
お腹はいつも空腹で、夜はのみとしらみでなかなか寝られず、子供達はますます元気がなくなり、なにする気力もなくなり、けんかもしないし、あばれる子もなく、だんだん口数も少なく、顔色も青白くなりました。

 一か月に一度順番でお家の方が面会にくるので、只々それを楽しみに待ち焦がれるのですが、一晩泊まって帰られた後は、よく部屋の隅で泣いている子がいました。でもその面会も汽車の切符が買えなくなりなり、なかなか来られなくなりました。やっとの思い出見えられても、もうその頃は嬉しい表情も悲しい表情もなくなりお母さんたちがびっくりされ心配なさっても、焼け野原になった東京に連れて帰るわけにはいきません。又、そのお母さんたちの連絡から、この中の子供の家が焼夷弾で焼け出された由、又他の子供の父親の戦死の知らせなど、悲しい知らせばかりが届き、この事実を子供達に何と伝えるかとてもとても思い悩み涙したものです。
本当に今思い出しても悲しいつらい疎開の子供たちでした。(ふりかな省略)

昭和64年1月3日

父 大正8年生まれ  享年82才
母 大正15年生まれ 89才

終戦記念日を前に、ただただこの戦争の内外の戦死者への哀悼と平和を祈願するばかりです。
by shinn-lily | 2015-08-14 08:28 | 大切な場所 | Trackback(1)

教えられること・教えられないこと

先日若い女性が入社しました。
彼女は暑ければ、「海にいきた~い」と叫び
(今や私は海より冷房の効いた部屋が好き)
国会の安保法案の委員会の乱闘を見れば「バーゲンセール」みたいと喜び
(どうするの,あなた達世代の問題なのよ)、
天真爛漫な性格がこちらのこりかたまった発想を良い意味で壊してくれます。

この彼女、どうも企業でのマナー、例えば電話の応対、お茶の出し方、他の同僚との接し方、言葉使いなどに戸惑っている様子。
そこで簡単にレジメをつくって、彼女を指導する女性も一緒ににわか研修会を実施ししました。
講師が私ということはたいした研修はできませんが、ひとつずつ、「あれが出来ない、これがだめ」というより,きちんと教えてあげる方が良いと思うのです。
若い女性を甘やかすのは楽なのですが、彼女の先の人生を考えれば、私は鬼に(子鬼くらいですが)ならなければなりません。


さて、この彼女、研修翌日から実に美しくなりました。
もちろん背が高くて美人なのですが、そのうえ教えたことをきちんと守って実践してくれるので、所作が美しくなったのです。
そして台所でお茶を入れ終わった彼女がにこにこして私にこう言いました。
「昨日教えていただいたおかげで、今日は戸惑わないででお出しできました。本当に有難うございます」

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こんなふうに言ってもらえると思ってもいませんでしたから、びっくりしました。
すなおに受け止めて、「おかげさまで」と感謝の言葉が言えるのは持って生まれたもの、あるいはご家庭の教育あってのことです。
マナーを教えることはいくらでも出来るけれど、このような可愛らしい性格は教えて出来るものではありません。
そしてこの気持ちこそ、彼女のこれからの人生を力強く後押ししてくれるに違いないと思うのです。
by shinn-lily | 2015-08-10 21:58 | まわり | Trackback

2015年8月6日

暑くて暑くて暑い日にも毎日の生活があって、やらなければならないことがあります。

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在職者の年金の受給に関して、よくわかりません。
同僚に聞いても訳が分からず、それに収入の微妙な問題がありますから、結局年金相談所に一度行ってみなければならないと意を決してでかけました。
一番近い相談所は相模大野にあります。

街は触ればやけどしそうなほどに暑く、それでも人は動いています。

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年金相談所では担当の女性が大変わかりやすく、親切に説明してくれて、やはり行ったかいがありました。
どちらにしても、たとえ繰り下げても予想通り年金だけでは暮らせそうもありません。

市営駐車場で駐車した階はZARAがあるショッピングモールにつながっていましたので、ついついジーンズのパンツを試着。
サイズが予想外にフィットして、その上saleでなんと1,580ですもの、買わずにはいられません。
今年は夏の買い物をほとんどしていません。
あとはもう少し秋物が出てからにしましょう。

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こんな暑い日はお昼を抜いたりしてはいけません。
小田急センチュリーホテルの中華を一度試してみましょう。

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950円のランチユーリンジかけの鶏のから揚げが二枚、スープにデザートにドリンク飲み放題
あまりの量の多さに疲れるほど
でもここ、ひと昔前の中国の雰囲気が残っていて、スタッフも中国人で、お味もよくヒットでした。

箱根山の上ホテルのショップでコロッケとメンチとあんぱんとシナモンロール
あけぼのでげんこつせんぺいを買って町田へ

暑い、暑い、車を降りるとクラクラします。

美味しいお肉を食べたい~
町田の「精肉店守屋」のお肉は味があるし、とてもお安いのです。
町田の商店街の老舗です。
牛肉切落とし、牛肉三枚肉、焼き肉用
ステーキ用にサロインとヒレ
豚肉とんかつ用、生姜焼き用
豚肉切落とし、豚肉三枚肉
それにこのお店の名物焼き豚
それぞれ300グラム~400グラム

ついでに何軒か先の冨澤商店できくらげを買いました。
ここのきくらげはいしづきが全くついていないし身が厚いのです。
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たれかけ焼きソバでもつくりましょうか。


帰宅後、これを小分けして冷蔵庫に収める作業は1時間もかかりました。
これでしばらくお肉は安心。

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暑い時はついついさっぱりとして麺に食指が動きますが、
こういう時こそ、お肉をしっかりと食べて夏をのりきりましょう。

同僚からのプレゼントの「銀座夏野」のお箸、

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わたしの大好きな落ち着いた赤
いいことがあった日におろしましょう。
by shinn-lily | 2015-08-06 22:51 | 日記 | Trackback

舞踏晩餐会

ロイヤルパークホテルで行われたある大きなダンススクールの記念舞踏晩餐会にご招待いただきました。
昔ご近所で仲良くしていただいていた友人Aちゃんが社交ダンスを長年続けていることは知っていました。
現在では住む場所も遠くなかなか会うことも出来ないそのAちゃんからのお誘いです。

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2時開場、5時半からのお食事まではアマチュアのデモンストレーションが行われます。
Aちゃんはここに出場します。

最高齢82才の出場者が素敵な踊りを見せてくださいました。その他の方もどちらかというと70才前後の方が多く、子供の手が離れて、人生にひとくくり着いた頃から始めたのでしょう。映画「Shall We Dance」の影響で始められた方が多く、この年齢層がかたまったと聞きました。
観客席のそばで踊ってくださるときには拍手をし
歌舞伎の掛け声のように「○○さん」「△△さん」と声がかかります。
みなさん先生のリードで緊張はなさっているものの軽快にそして、心からダンスを楽しまれているように感じました。
Aちゃんは何組か一緒のデモンストレーションでワルツとルンバを踊った後、

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いよいよ本番です。
シアンブルーのチュールのミモレ丈ワンピースにガラスビーズを散りばめ、美しい姿を一層際立て見えます。
ルンバが始まりました。
会場の雰囲気ががらっと変わって、静まりかえりました。
拍手も掛け声もかかりません。
呆然と息をも飲んでしまったかのようです。
あまりに素敵なダンスなので、皆見惚れてしまったのです。
踊る中になにか別の炎が見えるようです。
私ったら、うるうるしてしまいました。
凄い!と思った同時にものすごく嬉しかったのです。
会場を魅了している小さい時から知っているAちゃんの姿が友人として誇らしかったのです。

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ディナーを頂いたあとはAちゃんも席について、一緒にプロのダンスを堪能、
なにしろ初めての経験、未知の世界だったのですが、6時間はあっという間に過ぎてしまいました。

実は、合間合間にダンスタイムがあって、さすがダンス関係者、観客のみなさんもどんどんステージに集まって踊られます。
私もステージに近い席だったので若い男性が誘ってくださったのに、ああ残念、踊れないのです。経験がないのですもの。後のダンスタイムにはなるべく視線があわないようにしていました。悲しい~!
韓国全州のドライブで歌は歌えなかったし、ここではダンスのひとつも踊れない、つくづく無芸だと自覚しました。
人生の楽しさをひとつ置き去りにしてきてしまったようです。
Aちゃんかr帰りに美味しい葡萄のお菓子とスカーフをお土産にいただきました。素敵~♪
心浮き立つ真夏の一日でした。
Aちゃん、これからもダンスを楽しんで、また華麗な姿を見せてくださいね。
by shinn-lily | 2015-08-03 21:56 | 大切な時 | Trackback