カテゴリ:大切な場所( 56 )

女性が働き続けること①

最近、通勤時に多く見かけるようになった保育園送りのパパやママたち、ここ郊外の駅のまわりに保育園がいくつか出来たせいかもしれないが、子供が出来ても働く女性が増えているのは確かだ。

寿退社という言葉が死語になりつつあり、子供が出来てもキャリアを捨てない女性が増えた。

企業の対応も育児休暇など、女性社員に対する仕事継続支援制度が出来てきた。

安倍総理は2012年女性活躍推進をうたい、2014年「すべての女性が輝く社会づくり本部」を内閣に設置し、昨年4月には女性活躍推進法が施行された。

背景には少子化にともなう人手不足への想定から成長戦略への手当があるが、海外から「日本の社会がおくれている女性進出を応援した」ということで海外から評価を得たこともあるという。

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昔から、実は女性って活躍しているのをご存じかしら、政治家のみなさんは?

農家の女性は朝早くから夜まで働きづめで家族を支える。

美容師は女性とて、一人前になるまで、閉店後夜遅くまで勉強する。

働く女性を支える保育園の運営をになう保母さんだって、男性も増えたといってもやはり女性が中心だ。

だから、女性活躍推進法という名前に抵抗を覚えるのだ。活躍している女性は昔からたくさんいる。

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そして現実に目をむけてみる

「育児休業?育児はなにより大切ね。どうぞどうぞ、しっかり子育てに専念してね。女性としても応援するわ」

本心で子育てと仕事で大変な時期を経験した私としては心からこう応援したい。

けれども、あなたがいない時期、あなたの仕事は他の人でカバー出来ない。そのしわ寄せは急いで帰って家族のごはんを準備しなければならない他の女性にふりかかるのだ。

それに今時、昔のようにコピー機のまわりでおしゃべりをしている人なんていないほど、みな自分の仕事で手いっぱいだ。

ではその間、派遣さんを雇ってカバーする?

これも、昨今採用が難しくなっている。

悔しいが、「育児休業を取りたい」と言われたとたんに頭を抱えるのが、育児休業制度さえ整備されていない中小企業の現状だ。

それでも「女性活躍」という言葉が紙面に出るだけでもよしと考えるべきなのだろうか?

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子供を保育園に送る後ろ姿に今日もエールを贈る。

「大変な時期もいっとき、ここが踏ん張りどころ」と。 


by shinn-lily | 2017-05-28 11:46 | 大切な場所 | Trackback

桜揺れる


毎週、前を通り過ぎる寺に、私をひき止めたのはこの枝垂れ桜

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枝垂れ桜は今が盛りと咲き誇っていましたが
風に吹かれて揺れる姿は優しく、楚々としていました。

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この先の病院に入院している友人に見せてあげたい・・・

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もう半年
ほとんどの時間をベッドで過ごしているのに
どんなに大変な時も
いつも誰にでも同じ態度です。
わがままを言っていいのに・・・

「どうか、少しでもよくなりますように」

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思わず本堂の前で手をあわせました。
by shinn-lily | 2017-04-10 23:24 | 大切な場所 | Trackback

寄ってたかって

普段思いついたことや感じたことを日記がわりに雑文に残している。
東京都知事の騒動について「寄ってたかって」という言葉を思い浮かべた時、この言葉をつい最近使った覚えがあったことに気付いた。
雑文をたどってみると
「熊本地震の際に芸能人ボランティアが売名行為」だと寄ってたかって報道されたことについて書いた文章だった。
もう大多数の人はそんなニュース、忘れてしまっているだろう。
私だって忘れていた。

マスコミは人を持ちあげておいてストーンと落とす。
ストーンと落としたところに「寄ってたかって」報道する。
ベッキーの騒動だって、
佐村河内守氏のゴーストライター事件だって
乙武氏のことも
人がそのようなニュースを好むから報道が過熱するのだろう。
「へー、ねー、ひどいわね」って言いながら、普段のストレスを他人の騒動でいやすのだろうか。

税金は給与から源泉徴収されているから、意識のないうちに払わされている。
しかし、買いたいものをがまんし、無駄な電気ガスを使わないようにして暮らしている都民は多いはずだ。
だから私たちの税金を公私の区別なくを使われるのは腹がたつ。
おやめになったM様にだって、「せこいね」という言葉を投げかけたくなる。
けれども、世の中不倫だって、ムダ使いだって、もっともっと悪いことやっているのにマスコミの餌食にならない悪党が沢山いるはずだ。

報道という武器で人々を躍らせる人間
知らず知らずに報道に躍らせられる人間
そんな人間ばかりではないことを期待する。
良心の報道を目指し、真実をさぐる人間がいるはずだ。
今、真実はなにかと立ち止まる力を持っていたいと思う。

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「寄ってたかって面白がる好奇心」を、
「寄ってたかって真実や背景を考える姿勢」に変えたら、
この国の幹はもっと太くなるのではないだろうか?
by shinn-lily | 2016-06-23 22:34 | 大切な場所 | Trackback

娘夫婦のお財布にはらはら


娘夫婦にごちそうになるのは、どうもおちつかなくて
いつも、誘ってくれるのですが、なんとなく遠慮してました、

今回は、なにも言わずに2月に予約をいれておいて、事後承諾のご招待
連休の少し前に
それほどまでにして呼んでくれたので、母と私、ありがたくうかがいました。
妹は仕事で欠席、またの機会に。
場所は、我が家から近い「うかい」です。

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気持ちの良い手入れの行き届いたお庭で待ちます。

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個室からのお庭の眺めもご馳走です。

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娘が母のために迷わず一番良いお肉を注文、ランチといえどもお高いのではないかしら?
つい、はらはら。


でもこのコース、ひとりタジン鍋が用意され


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中身はオマールエビ、「わー、美味しい」と思わず全員叫ぶ

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もちろん、お肉はいうことありません。

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食事の後は場所をかえてデザートとお茶をゆっくりといただきました。

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今回の手土産はスタバのカードにチャージして婿と娘にそれぞれプレゼント
仕事場にスタバがあるので、喜んでくれました。
でも優しくもてなしてくれたので、翌日は手作りの筍寿司とチキンのもも焼きをご馳走しました。

車なら2,3分の場所に住んでいるのに、お互いに仕事が忙しくなかなか会うことはありません。
けれども、ふたりが元気でそばに住んでいてくれるだけで、幸せなことだと感謝しています。
by shinn-lily | 2016-05-05 16:19 | 大切な場所 | Trackback

「私の人生の先生」宅にて

楽しい時間はどうしてこんなに早く過ぎるのでしょう。
お料理サロンの先生としてご活躍のwhiteさんのお宅で春の1日、暖かいおもてなしにどっぷり甘えさせていただきました。
ブログでお知り合いになったのに、今やまるで学生時代からの友人のようです。

ご用意くださったのは、笑顔のお出迎えと素敵なお料理

新キャベツ with アンチョビソース

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新じゃが 

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ズキーニのキッシュ

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プチトマトのマリーネ

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チキン


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パスタ

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デザート

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メニューは、わたしたちにもつくれそうなものをそろえてくださり
秘密の裏ワザもこっそり教えていただきました。
これほどたくさんいただいたのに、重くないのが不思議です。
キッシュとチキンのお土産まで持たせていただきました。
そのお土産を自宅で頂きながら、今日1日の話しを家人に話すのも、また楽しさの再現です。


whiteさんの細やかな神経は、そのお料理のなによりのスパイスです。
そしてセンスあふれるお部屋でゆったりといただくお料理は、他では味わえない贅沢です。

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ご一緒したコスモスさんuransuzuさんはお仕事の関係で一足先に帰られ、残念。
ということで、私ひとりでついつい長居を・・・なにしろ居心地がよいのです。
わたしたちのために気をきかして外出なさっていたwhiteさんのご主人様もお戻りになり、またついつい・・・お話を聞かせていただき時間はあっという間に過ぎました。。
ご主人様は今日もピンクのストライプのシャツが若々しく、ますますファンになってしまいました。
こんなふうに歳を重ねていくのが素敵だなと思わせるダンディーな男性なのですもの。

whiteさんの手をぬかないお料理レッスンの様子をブログで拝見するたびに、わたしも頑張らなくてはとはげまされます。
そして見るだけではなく、こうして実際に味あわせていただくと、その気持ちはなお強くなるのです。
by shinn-lily | 2016-04-28 23:39 | 大切な場所 | Trackback

高校6クラス合同クラス会

還暦プラス5年目、6クラス合同クラス会が新宿のホテルで開催されました。

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88人の仲間と小学校の先生おひとり、中学の先生おひとり、そして高校の先生3人もおい
でくださって
良く会う友達、久しぶりの友達、そして卒業以来初めて会う人、
おつきあいがなくてもなんとなくみんな知り合い・・・そんな雰囲気は心地良いのです。

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今回は廻り巡って、クラス幹事を頼まれ、少しだけお手伝い、

少しだけだけれど、なにより気がもめるのは
ドタキャンの欠席者数
収支決算が心配です。
それでも心配はよそに、余剰金が出て、出席者の同意を得て同窓会事務局へ寄付ができました。

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最後に小学校の先生の音頭で学園の校歌を全員で斉唱

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一応これで締めですが、それからがもりあがります。
多くの出席者は小学校・中学からの持ち上がりです。
あちらこちらで記念写真の撮影会です。

小学校→竹組はこちら、梅組はこちら
高校A組集まれ・・・ほら○○君、早く早く
B組はこっち、

わたしのカメラで写した分はパソコンアドレスのわかる人には送信しますが
結局は多くの方へは撮影のみで終わってしまいます。
なら、何故記念撮影をするのでしょう。
実は、同じクラスの仲間がカメラに向かって心を合わせるこの瞬間がいいのですね。


中学グループの話題、当時生物の時間にやったかえるの解剖で盛り上がりました。
麻酔をかけてぴくぴく動いていました。
「やることはやらなくては」とかかんに取り組んでくれる優しい女友達がいて、助けられました。
今も犠牲者、いえ犠牲動物はかえるなのでしょうか。
いつだかテレビで今はにぼしの解剖をやるというレポートをやっていましたが。


それにしても、私、つくづく父にそっくりです。
全てのクラス会、同期会に出席していた父と同様に都合がつけばすべて出席です。
しかも、その何軒かで幹事をやるのまで同じです。
父が高年齢になってからは、よく手伝いに駆り出されました。

たいしたお手伝いができなくても、みなさんが気持ち良い時間を過ごしてくだされば
幹事冥利につきるのです。

5年後、また元気で集まることができますように。
by shinn-lily | 2015-10-25 16:48 | 大切な場所 | Trackback

「はるうた農園」 笑顔の門馬家

勤務先の同僚Fさんの高校時代の友人が門間(もんま)さん。
東京から長野に移住して、葡萄農園をやっている。
ランチタイムにFさんから女性テーブルに差し入れられた葡萄がとても美味しくて、
その時もらったパンフレットの家族の写真があまりにも素敵なので、お願いして葡萄を送ってもらった。

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知り合いには贈答用をお願いして
わが家用には自家用おまかせセット特別に頼んでもらった。
大きさが不ぞろいと聞いていたが、なんのなんの

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早速、祭日出勤の娘のところへ届ける
妹には駅まで取りにきてもらう
ああ、忙しい
どうせなら、シーチキンと鶏と季節のきのこで混ぜご飯も一緒に届けよう。

葡萄の箱の中に入ってい「たはるうた農園より」というリーフレットの文章が心に響く

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家族皆で行う農業を志して長野県に移住してから8度目の収穫を迎えています。
1年の集大成である収穫の時は、めだたいお祭りでもあり、
また私たちの作物を食べてくださる皆様とのつながりを感じる大切な時期でもあります。
寒冷地にしては珍しく、雨、雪供に比較的少ない長野県生坂村ですが、
ことしの梅雨に私たちのぶどう畑には土砂崩れに遭いました。
下草が生い茂っていた畑には、たった1時間で茶色い土砂が流れ込み、
頭上から落ちてきた巨大な「蛇籠(じゃかご)」によってぶどうの木はなぎ倒され、
まだ数センチだった小さなぶどうの赤ちゃん房は、見る間にしぼんでいきました。
日本全国、自然災害を挙げればきれがないほど、毎年のようにどこかで被害が起きていますが、
今回自分たちが初めてその当事者になってみて、
日常の光景がこわされたときの恐怖を感じました。
怒涛の作業の波に飲まれていたあの時、雷が鳴っていなかったら、
その畑で作業を続行していて巻き込まれていたことでしょう。
今も動いている命の鼓動に感謝して、実ってくれたぶどうを食べてくださる皆様の下へ、
最後まで愛情をたっぷり注いでお届けしていきます。

中略


ぶどう、アスパラガス、お米農家
〈人として真剣に自然と向き合い心に嘘をつかずに、真面目に楽しく前を向言えて農業にはげみます。


門馬(もんま)慎一、明子
〒399-7202
長野県東筑摩群生坂村北陸部13469


ホームページはこちら→楽しい家族の様子と葡萄がたくさん
ブログはこちら→収穫やイヴェントの話題

今やぶどうは皮ごといただける品種がたくさん、
一粒口にほうばれば、門間家の賑やかな声が
そして農家の方々のご苦労と喜びが聞こえてくるようだ。

来年もお願いしますよ~、みなさんお元気で~♪
by shinn-lily | 2015-09-23 01:15 | 大切な場所 | Trackback

全州・朴先生へのメール 「ご縁」

朴先生

MさんとTさんにお会いしました。
たぶんMさんからカカオトークで私たちの写真が送られたと思います。
あまりに楽しかったので、朴先生に早くメールを書きたかったです。
それなのに、仕事が本当に忙しかったのです。
昨日は打ち合わせが4つもありました。
今日は仕事を休むのでなおさら忙しかったのです。
家に帰ってから、パソコンを開く気力がありませんでした。

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Tさんに最初に出会ったのは一度目の全州への旅で、朴先生と初めてお会いした時です。
Mさんに出会ったのは朴先生とMeiさんが全州のバスターミナルに迎えに来てくださった時ですね。

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全て朴先生を中心としたご縁です。

全員、韓国が大好きなので、話がつきませんでした。
小説やハングルの話し、音楽、映画や文化、など。
なにしろ、みなさんとても勉強好きなので、教えていただくことがたくさんありました。
先生があの場にいらしたら、私たちはもっと楽しかったことでしょう。
朴先生がとても褒めることが上手であるとみんなで話しました。
先生が日本に来てくださったらどんなに嬉しいかと話しました。
いえいえ、新聞のエッセイーを連載されているうちは無理な願いだとも話しました。
でも、私もみなさんも待っていますよ。

Tさんは私よりお姉さまなのに、興味に向かって突進なさいます。
私はまだまだ足元にも及ばない・・・励まされました。
Mさんは静かなのに、意欲が体いっぱいに溢れています。
お二人とも、精神的に独立していて、おひとりでどんどん韓国にいらっしゃいますね。
みなさんはとても頭が良いので、私もおいつくために、もっと勉強しなければなりません。

朴先生が日本語の勉強のために使っている「涙そうそう」を唄っている夏川りみのコンサートにいってきました。
唄は作詞をした森山良子さんが歌う方が好きです。
けれども、夏川りみさんのお人柄が伝わってくる良いコンサートでした。
今日はご報告だけのメールになってしまいました。
近況はまた書きます。


昨日も雨です。今日も雨です。
昨日の夕方、虹をみながら帰宅しました。

お元気で。

shinn-lily


韓国全州にお住まいになる詩人朴先生とお知り合いになって1年ほどなのに、昔からのお知り合いのようにメールでおつきあいさせていただいてます。このご縁に感謝しています。
今朝、メールを書きました。
書いたメールをグーグルの翻訳機をつかって、ハングルを併記して送信します。
翻訳機が賢く働くことができるように、文章を出来るだけ短く区切ります。

今度、朴先生がお勉強中の日本語とわたしの単語をつなげるだけのハングルで、またお話ができるのはいつのことでしょう?

全州では雨が降らないので、雨を待っていると、お返事をいただきました。
関東地方は鬼怒川の堤防が決壊して大変な被害がでています。
早く避難遅れの方々が救出されますように!
テレビを見ながらはらはらしています。
by shinn-lily | 2015-09-10 15:16 | 大切な場所 | Trackback

戦争の記録 祖父母から孫への手紙

娘が小学校2年生の時、クラス担任の熱心な指導の下、おじいちゃん、おばあちゃんへ出したお手紙の返事が一冊の冊子にまとめられました。

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当時学校で「平和教育」に取り組んでいましたので、娘は戦争についての質問の手紙を書きました。
ふと思い出してその冊子を読んで、戦後70年の終戦記念日を前にこの文章を他の方にも読んでいただきたいという想いにかられました。


娘の祖父である私の父は日本橋に住んでいましたが、当時海軍士官として横須賀に赴任していたようです。

祖父の手紙
①戦争はいつ始まったのですか
昭和16年(1941年)12月8日 朝、日本海軍のパールハーバーの空襲で始まりました。

②戦争はいつ終わったのですか
昭和20年(1945年)8月15日正午に終わりました。

③その頃はどんなおうちに住んでいたのですか
古いおうちばかりでした。昔の日本の感じです。戦争で焼けなかった京都の町によく似ています。あのまち、こもまち、みんなおもいでのまち、よこちょうです。古いしゃしんを見てください。

④その時どんなふうにくらしていましたか
みんな焼け野原です。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんたちみんなこじきのようなくらしです。食べるものは少なくておなかがすいてこまりました。でもまだ良い方で、戦争でかぞくやお父さん、お母さんの亡くなったこどもたちはやけあとの今のJRのえきなぞにくらしていました。

⑤こどもはどうしていましたか
東京の子どもはめいれいでそかいといって田舎におくられました。
こどもたちと先生だけですから、ゆきとどきません。たべものもあまりありません。しらみのいっぱいいたせいかつです。
1989年1月1日




娘の祖母である私の母は当時中野に住み、父親がこの状況下娘を心配して傍においておきたいということで、近所の小学校の教員をしていました。

祖母の手紙

戦争中の子供たち

 私の小学校4年生の頃支那事変という今の中国と戦争が始まりました。友達のお父さん、お兄さんがぼつぼつ戦争へ行きました。
お父さんが戦争に行ってしまうとの残されたお母さん、子供達はとても淋しい思いをしたのです。只淋しい思いをするだけではなく、何時戦争でお父さんが弾丸(たま)に当たって戦死するか、又けがをするかわかりません。

 昭和16年、大東亜戦争に突入するともう殆どの家の男の人は戦争にかり出されました。いつその召集令状が来るか、足音が家の前で止まると胸がどきどきしたものです。召集令状は当時「赤紙」といわれて赤い紙に「何月何日軍隊に出頭する事」という事だけ書いてあり、その「赤紙」がきたら、どんな事情があっても軍隊にいかなければならないのです。おじいさん、子供たちは別として、病気でない男の人は殆ど召集令状を受けて、戦場へ、戦場へと行ったのです。
 だんだん戦争がはげしくなり日本本土上空にもアメリカのB29が爆弾や焼夷弾(しょういだん)をたくさん積んで百機、二百機と編隊を組んで襲来、爆弾を落とし、焼夷弾をおとしました。 私はその頃、小学校の先生をしていました。勉強をしていても何時敵機来襲があるかわからず、落ち着いて勉強もだんだん出来なくなりました。子供たちが東京にいては危ないのでなるべくあまり敵機が来ない田舎へ疎開するようになり家中で田舎に引っ越す人もいました。又お父さん、お母さんが仕事で田舎へ行けない人は子供だけ親戚の田舎の家へ疎開する子がふえてきて、教室の子供たちもだんだん少なくなりました。でもまだ田舎へ行けない子供たちは毎日防空頭巾を肩に下げて登校しました。
 敵機の来襲のサイレンが鳴るとすぐに勉強をやめて自分たちで校庭に掘った防空ごうの中へ逃げました。防空ごうへ入るか入らないうちにB29のすごい爆音が聞こえ、すぐに爆弾を落としたドスーンという音がします。その時防空ごうの中の土がそのひびきでパラパラと落ちるのです。皆、耳をおおって、体をちぢめ、怖さに震えているところへさらに土がくずれ落ちます。絶え間なくドカーン、ドカーンという音と地響きして、それはそれは怖かったものです。すぐ近くで爆弾が家に命中して燃え上がり、私のクラスにも一家全滅した家もありました。

 いよいよ空襲が毎日毎晩のようになり疎開しないで残った子供たちも危険になり、学校で先生が子供たちだけを連れて集団疎開をすることになりました。私も最後の組で二十数人の子供たちを連れて集団疎開をしました。昔の古い宿屋さんにお世話になり、お父さんお母さん兄弟など家の人達と離ればなれの三年生以上六年生の子供達と一緒に生活をしました。
 午前中は宿の二階で勉強、午後は上級生はリュックを背負って先生と一緒に買い出しに、下級生は畑の芋とりにと淋しさ、悲しさに耐えて食糧集めに一生懸命でした。初めのうちは芋や大根の入ったご飯が食べられましたが、せまい田舎に急に大勢の疎開者が増えたので食糧がすぐにたらなくなり、ご飯がおかゆになり、それもだんだんにコメ粒がほんの少ししか入っていない水っぽいおかゆが殆どでした。もちろんおかずらしいものもなく、お腹がいつもすいていてだんだんに元気がなくなりました。おまけにのみ、しらみ、蚊、はえが多く昼間座敷を歩いても、蚤がぴょんぴょんと足のすねに5,6匹、また洋服、下着、ふとんにはしらみがびっしりついて、おおきなお釜で下着を蒸してしらみを殺すのですが、いくら蒸しても卵は死なず、しらみ退治は出来ません。畳を全部あげて日に干してたたくのですが、その晩はかえって畳の中の方にいたのみが出てきておうあばれ、女の子には髪の毛にもしらみがついて、くしでとかしてあげるとポロポロと黒い毛じらみが沢山落ち、お酢で洗っても洗っても、はやり玉子が生き残り、退治できませんでした。
お腹はいつも空腹で、夜はのみとしらみでなかなか寝られず、子供達はますます元気がなくなり、なにする気力もなくなり、けんかもしないし、あばれる子もなく、だんだん口数も少なく、顔色も青白くなりました。

 一か月に一度順番でお家の方が面会にくるので、只々それを楽しみに待ち焦がれるのですが、一晩泊まって帰られた後は、よく部屋の隅で泣いている子がいました。でもその面会も汽車の切符が買えなくなりなり、なかなか来られなくなりました。やっとの思い出見えられても、もうその頃は嬉しい表情も悲しい表情もなくなりお母さんたちがびっくりされ心配なさっても、焼け野原になった東京に連れて帰るわけにはいきません。又、そのお母さんたちの連絡から、この中の子供の家が焼夷弾で焼け出された由、又他の子供の父親の戦死の知らせなど、悲しい知らせばかりが届き、この事実を子供達に何と伝えるかとてもとても思い悩み涙したものです。
本当に今思い出しても悲しいつらい疎開の子供たちでした。(ふりかな省略)

昭和64年1月3日

父 大正8年生まれ  享年82才
母 大正15年生まれ 89才

終戦記念日を前に、ただただこの戦争の内外の戦死者への哀悼と平和を祈願するばかりです。
by shinn-lily | 2015-08-14 08:28 | 大切な場所 | Trackback(1)

変貌を望まなくなったのは、いつからであろう

小学生の頃、新宿西口が綺麗になっていくのを見て嬉しかった。
中学生の頃、東京オリンピックがあって、東京がどんどん整備されていくのに目をみはった。
大学生の頃、東名高速道路に連なる道路灯を見た時、未来につながってゆく道だと思った。
いつのまにか私たちの住む日本が変貌して、戦後のにおいが街から消えて、世界の都市東京となっていった。
そして世界都市に住むことに誇りを持っていた。
しかし、この変貌をつまらないものだと思ったのはいつからだろうか?

高校合同クラス会の打合せで久し振りに母校に行った。
体が弱かったので、父の意向で小学校から空気の良いこの学園に通った。
木造の駅の階段を上ると富士山が見えた。
たくさんの思い出のつまった駅は、とっくに今風のつまらないモダンな駅になっていた。

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母校の学園にはかつて蔵野の雑木林があった。今はない。
草むらで隠れん坊をした。

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丘があり、川があり、池があり、池の真ん中の島もそのまま残っていた。

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しかし、道は舗装され土や砂利の道はなくなっていた。
校舎は建て増しされ、立派になっていた。

変わってしまうのはしかたがないのだろう。なにしろ50年も前のことだから。
あの木造の洋館風建物のわずかな一部だけでも残して欲しかったと願うのは強欲に違いない。
これだけ緑が残った学園運営に感謝しなければならない。

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大きな災害がくれば一瞬にして全てが無くなる日本列島に住む私たちは、これからも常に新しいものを追い続けていかなければならないのか、永遠に。

そう考えれば、老木に守られたキャンパスは、今や贅沢のきわみでもある。

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もはや発展を望まず、変わらぬものに愛着を感じるようになったのは、年齢のせいだろうか?
それとも、都市の変貌が人の心のよりどころを破壊していると気づいたせいであろうか?
by shinn-lily | 2015-07-13 21:12 | 大切な場所 | Trackback