戦争の記録 祖父母から孫への手紙

娘が小学校2年生の時、クラス担任の熱心な指導の下、おじいちゃん、おばあちゃんへ出したお手紙の返事が一冊の冊子にまとめられました。

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当時学校で「平和教育」に取り組んでいましたので、娘は戦争についての質問の手紙を書きました。
ふと思い出してその冊子を読んで、戦後70年の終戦記念日を前にこの文章を他の方にも読んでいただきたいという想いにかられました。


娘の祖父である私の父は日本橋に住んでいましたが、当時海軍士官として横須賀に赴任していたようです。

祖父の手紙
①戦争はいつ始まったのですか
昭和16年(1941年)12月8日 朝、日本海軍のパールハーバーの空襲で始まりました。

②戦争はいつ終わったのですか
昭和20年(1945年)8月15日正午に終わりました。

③その頃はどんなおうちに住んでいたのですか
古いおうちばかりでした。昔の日本の感じです。戦争で焼けなかった京都の町によく似ています。あのまち、こもまち、みんなおもいでのまち、よこちょうです。古いしゃしんを見てください。

④その時どんなふうにくらしていましたか
みんな焼け野原です。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんたちみんなこじきのようなくらしです。食べるものは少なくておなかがすいてこまりました。でもまだ良い方で、戦争でかぞくやお父さん、お母さんの亡くなったこどもたちはやけあとの今のJRのえきなぞにくらしていました。

⑤こどもはどうしていましたか
東京の子どもはめいれいでそかいといって田舎におくられました。
こどもたちと先生だけですから、ゆきとどきません。たべものもあまりありません。しらみのいっぱいいたせいかつです。
1989年1月1日




娘の祖母である私の母は当時中野に住み、父親がこの状況下娘を心配して傍においておきたいということで、近所の小学校の教員をしていました。

祖母の手紙

戦争中の子供たち

 私の小学校4年生の頃支那事変という今の中国と戦争が始まりました。友達のお父さん、お兄さんがぼつぼつ戦争へ行きました。
お父さんが戦争に行ってしまうとの残されたお母さん、子供達はとても淋しい思いをしたのです。只淋しい思いをするだけではなく、何時戦争でお父さんが弾丸(たま)に当たって戦死するか、又けがをするかわかりません。

 昭和16年、大東亜戦争に突入するともう殆どの家の男の人は戦争にかり出されました。いつその召集令状が来るか、足音が家の前で止まると胸がどきどきしたものです。召集令状は当時「赤紙」といわれて赤い紙に「何月何日軍隊に出頭する事」という事だけ書いてあり、その「赤紙」がきたら、どんな事情があっても軍隊にいかなければならないのです。おじいさん、子供たちは別として、病気でない男の人は殆ど召集令状を受けて、戦場へ、戦場へと行ったのです。
 だんだん戦争がはげしくなり日本本土上空にもアメリカのB29が爆弾や焼夷弾(しょういだん)をたくさん積んで百機、二百機と編隊を組んで襲来、爆弾を落とし、焼夷弾をおとしました。 私はその頃、小学校の先生をしていました。勉強をしていても何時敵機来襲があるかわからず、落ち着いて勉強もだんだん出来なくなりました。子供たちが東京にいては危ないのでなるべくあまり敵機が来ない田舎へ疎開するようになり家中で田舎に引っ越す人もいました。又お父さん、お母さんが仕事で田舎へ行けない人は子供だけ親戚の田舎の家へ疎開する子がふえてきて、教室の子供たちもだんだん少なくなりました。でもまだ田舎へ行けない子供たちは毎日防空頭巾を肩に下げて登校しました。
 敵機の来襲のサイレンが鳴るとすぐに勉強をやめて自分たちで校庭に掘った防空ごうの中へ逃げました。防空ごうへ入るか入らないうちにB29のすごい爆音が聞こえ、すぐに爆弾を落としたドスーンという音がします。その時防空ごうの中の土がそのひびきでパラパラと落ちるのです。皆、耳をおおって、体をちぢめ、怖さに震えているところへさらに土がくずれ落ちます。絶え間なくドカーン、ドカーンという音と地響きして、それはそれは怖かったものです。すぐ近くで爆弾が家に命中して燃え上がり、私のクラスにも一家全滅した家もありました。

 いよいよ空襲が毎日毎晩のようになり疎開しないで残った子供たちも危険になり、学校で先生が子供たちだけを連れて集団疎開をすることになりました。私も最後の組で二十数人の子供たちを連れて集団疎開をしました。昔の古い宿屋さんにお世話になり、お父さんお母さん兄弟など家の人達と離ればなれの三年生以上六年生の子供達と一緒に生活をしました。
 午前中は宿の二階で勉強、午後は上級生はリュックを背負って先生と一緒に買い出しに、下級生は畑の芋とりにと淋しさ、悲しさに耐えて食糧集めに一生懸命でした。初めのうちは芋や大根の入ったご飯が食べられましたが、せまい田舎に急に大勢の疎開者が増えたので食糧がすぐにたらなくなり、ご飯がおかゆになり、それもだんだんにコメ粒がほんの少ししか入っていない水っぽいおかゆが殆どでした。もちろんおかずらしいものもなく、お腹がいつもすいていてだんだんに元気がなくなりました。おまけにのみ、しらみ、蚊、はえが多く昼間座敷を歩いても、蚤がぴょんぴょんと足のすねに5,6匹、また洋服、下着、ふとんにはしらみがびっしりついて、おおきなお釜で下着を蒸してしらみを殺すのですが、いくら蒸しても卵は死なず、しらみ退治は出来ません。畳を全部あげて日に干してたたくのですが、その晩はかえって畳の中の方にいたのみが出てきておうあばれ、女の子には髪の毛にもしらみがついて、くしでとかしてあげるとポロポロと黒い毛じらみが沢山落ち、お酢で洗っても洗っても、はやり玉子が生き残り、退治できませんでした。
お腹はいつも空腹で、夜はのみとしらみでなかなか寝られず、子供達はますます元気がなくなり、なにする気力もなくなり、けんかもしないし、あばれる子もなく、だんだん口数も少なく、顔色も青白くなりました。

 一か月に一度順番でお家の方が面会にくるので、只々それを楽しみに待ち焦がれるのですが、一晩泊まって帰られた後は、よく部屋の隅で泣いている子がいました。でもその面会も汽車の切符が買えなくなりなり、なかなか来られなくなりました。やっとの思い出見えられても、もうその頃は嬉しい表情も悲しい表情もなくなりお母さんたちがびっくりされ心配なさっても、焼け野原になった東京に連れて帰るわけにはいきません。又、そのお母さんたちの連絡から、この中の子供の家が焼夷弾で焼け出された由、又他の子供の父親の戦死の知らせなど、悲しい知らせばかりが届き、この事実を子供達に何と伝えるかとてもとても思い悩み涙したものです。
本当に今思い出しても悲しいつらい疎開の子供たちでした。(ふりかな省略)

昭和64年1月3日

父 大正8年生まれ  享年82才
母 大正15年生まれ 89才

終戦記念日を前に、ただただこの戦争の内外の戦死者への哀悼と平和を祈願するばかりです。
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