夏目漱石の初版本と住居跡界隈
2014年 01月 08日
品の良い色・粋でモダンなデザイン
書籍というものが、今の時代の価値観と全く違うということを思い知った。
居住まいを正さなければ、本のページは開けない。
漱石は40歳(明治40年)から早稲田南町に住み50歳で死去した。
住居跡が漱石山房として整備されている。
現在は小さなプレハブ小屋にわずかに関連資料が展示されている。
「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」など代表作の多くはこの地で書かれた。数年後には記念館も建つようだ。
著書「硝子戸の中」の冒頭部分から当時の様子がうかがえる。
硝子戸(ガラスど)の中(うち)から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉(ばしょう)だの、赤い実(み)の結(な)った梅もどきの枝だの、・・・略・・・書斎にいる私の眼界は極(きわ)めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
赤い実もあった。そのむこうに芭蕉の木があった。
この住まいは借家であったが、もともと夏目家は2キロほど離れた馬場下にあった。
同じく「硝子戸の中」から
私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。・・・略・・・もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内(しゅびきうち)か朱引外か分らない辺鄙(へんぴ)な隅(すみ)の方にあったに違ないのである。
それでも内蔵造(くらづくり)の家(うち)が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上(あが)ると、・・・略・・・それから坂を下(お)り切(き)った所に、間口の広い小倉屋(こくらや)という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛(ほりべやすべえ)が高田の馬場で敵(かたき)を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒(ますざけ)を飲んで行ったという履歴のある家柄(いえがら)であった。
朝早かったった為小倉屋はまだ開いていなかった。
そのすぐ横に「漱石誕生の地」の石塔が立つ。
そこから上り坂が始まる。夏目坂である。
小学6年生まで近所に住んでいたので、このあたりは馴染みが深い。
私が住んでいた頃はそんな風に呼んだ覚えはないから、近年になって夏目漱石にちなんで整備されたと思われる。
今私の住んでいる近所に喜久井町(きくいちょう)という町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。・・・略・・・
この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後(のち)になってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵(こしら)えたものに相違ないのである。
私の家の定紋(じょうもん)が井桁(いげた)に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教(おす)わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。・・・略・・・ 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名に ならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによる と父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。
小さい頃、父がここは「吾輩は猫である」を書いた夏目漱石という人が住んでいた所だと私に教えた。
それ以来、よく歩く道だったので、ここを通り、この猫塚を見るたびに「ここは吾輩は猫である人の家があったところ」と心の中で繰り返していた。
「吾輩は猫である」を書いた人がどのような人であるか意識したのは、この地から引っ越した後、中学生になってからであった。